有名ゲーム機からマイナー本体まで
前編に引き続き、今日は『日本で発売した歴代の家庭用ゲーム機たち 中編』をお届けします。
1990年代はゲームの黄金期とも言える時代で、据え置き機、携帯機を問わずいろいろな会社からいろいろな本体が出ています。知名度の高い本体はもちろん、「えっ、こんなの発売してたの?」なんていうマイナー本体まで、サクッと紹介します!
1990年代のゲーム機たち
ゲームギア(1990年 セガ)
セガ初の携帯型ゲーム機。
カラー液晶ではあったものの、STN液晶という消費電力の激しいものだったため、稼働時間は3時間程度という短さでした。本体の重さもあり、ゲームボーイに大きく水を空けられてしまいました。ただ、世界で1000万台以上を売り上げていて、売れなかった、というより売れたけどゲームボーイという巨人には勝てかった、という感じです。
PCエンジンGT(1990年 NECホームエレクトロニクス)
世界初となる、据え置き機と互換性がある本体がこれ。
PCエンジンの携帯機版であり、Huカード(PCエンジンのカード型ソフト)を刺してそのまま遊べるというシロモノ。別売りチューナーをつなげば液晶TVとしても使える。なかなかに高性能! しかしネックだったのがお値段。メーカー定価44,800円という価格は出せる人は限られていましたね。
スーパーファミコン(1990年 任天堂)
ファミコンの後継機ということで、鳴り物入りで発売したスーパーファミコン。ファミコンと互換性はありませんが発売前から期待度はバツグンで、FF4やドラクエ5など、ファミコンの人気シリーズ続編も投入されるなど、盤石の形で世代交代した本体です。個人的にもスト2やFF、ドラクエなどかなりたくさん遊んだゲーム機ですね(*´∀`)
NEOGEO(1990年 SNK)
『100メガショック! ネオジオ!』
この言葉を覚えている人も多いはず。ゲーセンの移植ではなく、『ゲームセンターと同じクオリティで遊べる』のが特徴でした。その特徴のため本体価格が恐ろしい高さで、本体が58,000円、ソフトが30,000円以上もしたんです。当時学生だったおしょ~では到底手が出せませんでしたね。
▲餓狼伝説スペシャルのCM。 最初に入る『100メガショック! ネオジオ!』という言葉は当時かなり耳にしました。ゲームセンターと同じ画面というのもインパクト大きかったですね。
メガCD(1991年 セガ)
メガドライブにつなげることで、メガCD専用のゲームを遊ぶことができた本体です。今でも語り継がれる名作シューティング『シルフィード』が発売したのもこのメガCDでしたね。
3DO(1993年 松下電器)
プレステやサターンに先立って発売されたゲーム機。ハードのみで利益を取る必要があったことから、本体価格は54,800円とかなり高価。プロモーションもよくわからないイメージのものが多く、後発したゲーム機になすすべもなく駆逐される悲しい結果に…。
PC-FX(1994年 NECホームエレクトロニクス)
なにげに数々のゲーム機を出しているNECが、ハドソンと共同開発した本体。NECのパソコンとの連携機能なども搭載しています。CD-ROMを使ったビジュアル、アニメーション機能を重視されていました。しかしプレステ、サターンの発売で一気に3Dゲームがメインとなっていったため、時流にそぐわないPC-FXはメインハードとなることはできませんでした。
プレイディア(1994年 バンダイ)
ゲーム機じゃないよCD-ROMプレイヤーだよ、とメーカー自体は言っていた本体。ターゲットが小学生、ということで知育系やキャラクターゲームがメインとなっていました。ただ、小学生ってゲームに対してかなり目が超えているんですよね。そのため、スペック的にも見劣りする当本体は太刀打ち出来なかったです。
セガサターン(1994年 セガ)
プレステか、サターンか?
ほぼ同時期に発売された2つの本体。先行したのはこのサターンでした。積極的なプロモーションとキラータイトルであるバーチャファイターの投入で、一時は本体台数がプレステを上回ってました。
ただ、3D機能がプレステより弱いのと、魅力的なサードパーティソフトがプレステに流れたことで戦況は悪化。善戦はしたものの、ファイナルファンタジー7がプレステで出る、ということが決定し、発売したことで勝負は決しました。ただ、セガが発売した本体の中では、一番日本で売れているそうです。
せがた三四郎など、ユニークな販促活動も印象的ですね。
プレイステーション(1994年 ソニー)
本来は任天堂と協力し、スーパーファミコン互換のCD-ROMゲーム機で使われる予定だったのが頓挫し、自社で開発を続け、発売することになった経緯があります。
当時は任天堂がスーパーファミコン、ゲームボーイで一大勢力を築いていました。しかしソニーは積極的なサードパーティの取り込みを図り、開発ツールも安く提供。結果、たくさんの開発会社が参入し、玉石混交ながらユーザーに評価されるように。後にファイナルファンタジーやドラゴンクエストのナンバリングタイトルが発売されたことで、この世代のゲーム機戦争に勝利することになりました。
個人的に思い出深いゲーム機のTOP3に入る本体です。本当にプレステ1のゲームタイトルはいろんなタイトルがあって、勢いが凄かったです。実家にソフトが取ってあったりして、今でもたまに遊ぶと学生気分に戻れますね(*´∀`)
バーチャルボーイ(1995年 任天堂)
任天堂の3Dゲーム機。
価格は安かったものの、プレステ、サターンで話題となっていた当時のゲーム市場では正直見劣りしていました。また、3D立体視の体験を販促活動で上手く伝えられなかったり、赤と黒で構成された見栄えしない画面がネックに。
結果、販売台数は日本で15万台と惨敗してしまいました。後に3DSで立体視が採用されるまで7年の歳月を要することになりました。
ピピンアットマーク(1996年 バンダイ、アップル)
バンダイとアップルが共同開発した、Mac互換のマルチメディア機。ピピンアットマークゲームとMac用ゲームも遊べました。販促活動の足並みが揃わず、ゲーム機なのかよくはっきりしない特性も足をひっぱった結果、販売台数は42,000台。『世界で一番売れなかったゲーム機』になってしまいました。
NINTENDO64(1996年 任天堂)
任天堂が満を持して発売した据え置きゲーム機。
当初はCD-ROMを採用する予定でしたが、ROMカセットを採用しています。それらの要因から開発が難航。結果的にプレステ、サターンから2年遅れでの発売となりました。
さすがに2年遅れていると、プレステが席巻し始めていた市場に食い込むのは難しい状況でした。またソフトの開発も環境に問題をかかえており、サードパーティを呼びこむことにも失敗してしまいます。おしょ~も実際に買ったのですが、マリオ64を遊んだだけですぐに売ってしまいました(;´Д`)
プレステやサターンと同時期に発売していたら状況は変わっていたかもしれませんね。
ネオジオポケット(1998年 SNK)
NEOGEOで対戦格闘ゲームをさらに普及させたSNKが出した携帯ゲーム機がこれ。SNKらしく、対戦格闘ソフトが多く発売されていました。ただ、本体発売前から液晶がカラーになる本体の発売を予告していたことから売れ行きは低調に終わってしまいます。そりゃすぐにカラー版が出ることがわかっていたら、なかなか買いづらいか…。
ドリームキャスト(1998年 セガ)
セガが発売した最期のゲーム機。
しかしハード機能はもちろん、コントローラに刺すビジュアルメモリや、モデムを内蔵していて買ったらすぐにネットにつなげるなど、かなりの先進性を持っていました。
『ソウルキャリバー』『シーマン』などクオリティや個性的なゲームはあったものの、タイトル不足に。PS1との互換もあったPS2が発売してからは苦境に立たされることに。
また、サターンの時と同じく、販促活動がユニークで話題になりました。
いきなり子供たちに
「セガなんてダッセーよな!」
「プレステのほうが面白いよな!」
と言わせる自虐っぷり。これ、企画した人もそうですが、それにOKを出す上司も含めすごいです。絶対社内で反対があったはずなのに、地上波CMで流すというセガ。やっぱり頭のネジが数本抜けているとしか考えられません。良い意味で(*´∀`)
また、おしょ~が実家に大切に保存してある本体の1つです。今考えてみればものすごく時代を先取りした本体でしたね。いや、ホント良い本体ですよ(*´∀`)
ワンダースワン(1999年 バンダイ)
ゲームボーイを作った横井軍平さんが任天堂を退社後に手がけた携帯型ゲーム機がこれ。縦にも横にも持てる本体設計という斬新な本体です。
しかし他会社がカラー液晶の携帯ゲーム機を発売する中、白黒という見栄えの悪さがユーザーにあまりよい印象を与えませんでした。結果的にカラー機であるワンダースワンカラーを発売することになりますが、対抗はできませんでした。なにげに今でもお店にいくつか在庫があったりします(*´∀`)
後編は2000年代~現在のゲーム機を紹介!
明日の後編は、2000年代のゲーム機を紹介します。
とうとう世界で一番売れたあの本体が出てきます…お楽しみに!
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